路上の記録集

散歩ライターの谷頭和希(たにがしら かずき)が日々フィールドワークした場所や感じたことについて記録するブログです。記事の宣伝も。

千葉の高倉健

目次(あまり意味はない)↓↓

 

 出会い

 

用があって千葉駅の周辺を歩いていたときのこと。

 

ぼくの方に飛行機が突っ込んできた。

 

あぶない。

 

そう思う暇もなく、僕の目には驚きの光景が広がっていた。

 

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どどん

 

ゲーセンだ。いや、上に飛行機もある。飛行機とゲーセンのハイブリッド。

 

一体これは何なんだ。ぼくは一瞬にしてこの飛行機ともゲーセンともいえない謎の建造物に魅了されていた。

 

まず、この絶妙な傾き加減がいい。落ちそう、だが、落ちない。なんともいえない角度で均衡を保っているのである。この角度のおかげで、あたかもぼくに飛行機が迫りくるかのような、そんな臨場感が生まれている(風に感じた)。

 

それに、芸も細かい。コックピットの中を覗いてみると……

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なんかいる

なんかいるのである。

この「なにものか」はコックピットの中でじっと潜んでいる。かつてこの飛行機を操縦して大空に羽ばたいていたのだろうか。しかし、このゲームセンターに飛行機ごと補足されてしまって、コックピットの中で窒息してそのままミイラ化したのだろうか。なんともあわれな生涯。

 

そんなかつての飛行士のつぶらな瞳がぼくをつかんで離さないからこそ、ぼくはこの謎のオブジェに魅了されたのだろうか。

 

これから綴られる文章は、なぜぼくがこの千葉のゲーセンのオブジェに魅了されたのか、ただひたすらそれを考えている5000文字である。だからあらかじめ断っておくと、これを最後まで読み切っても本当に得るものはない。分かるのは、ただ、ひたすらに、ぼくがこの千葉のオブジェが好きなんだな、ということだけである。

 

読者の戸惑いが目に見えるかのようだが、気にせず先に進んでいこう。

 

孤独であること

 

とはいえ、こんな類の、お店に変なオブジェが張り付いている例をぼくはいくつか見たことがある。

 

たとえばこの手の「飛び出す看板」とでもいえるものの宝庫が大阪の道頓堀だろう。ちょっと見てみよう。

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とびだす

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さらにとびだす

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もういっちょ

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通天閣も出てきちゃった

なかなかの飛び出っぷりである。

飛び出しっぷりの派手さ加減でいえば、例の千葉の飛び出し飛行機よりも断然上である。

 

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迫力に欠ける

しかし、なぜだろう。大阪のこうしたオブジェ群に、ぼくは千葉ほどの魅力を感じない。むしろずっと見ているとなんだか疲れてくるようだ。

 

そうか。

 

 

集まりすぎなのである。飛び出し濃度が濃すぎるのだ。

 

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オブジェひしめく道頓堀

今写真で見せたエリアは半径100メートルにも満たない狭い地域の中で撮られたもので、このオブジェたちの密集感はすごい。というか、暑苦しい(あくまでも主観です)。

 

千葉はどうか(千葉の飛行機のオブジェというのがめんどくさくなってきたので、「千葉」と呼びます)。

 

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孤独のオブジェ

いい。

 

一人である。群れを成していない。そう、千葉は一匹狼なのだ。孤独だからこそ、ぼくに語りかけてくる何かがある。そこにぼくは惹かれているのかもしれない。

 

純粋であること

 

孤独であること。これが千葉の魅力の一端である。とはいえ、そうした意味で言えば、「孤独のオブジェ」は意外と街中にある。例えば……

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孤独のグローブ

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孤独のゴルフボール

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孤独のシェフ

みんな孤独だ。

 

しかし、なぜだろう。やはりこのオブジェにも、ぼくはそれほどまでの魅力を感じない。

それはなんとなく、としか言いようがないのだけれど、あえて言語化するならば、「純粋でない」感じがするのである。雑念があるというか。

 

例えば、この看板。

 

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孤独のシェフは、料理器具を売っている合羽橋「ニイミ」のビルに張り付いている。

そう、このオブジェはそれが張り付いている店を宣伝するために、その店と関係があるものがオブジェになっているのである。先ほど見せた店の写真はすべてがその施設と関係があり、巨大な広告の意味を果たしている。

いや、看板とは店をPRするためのものだから、まったく問題はない、というか、むしろこれが正しい形なのだけれどやはりどこか「PRしてやるぞ~~」という気持ちが強くて辟易してしまうのである。

それと同じように、さっき見せた写真も一番上はグローブがバッティングセンターの広告に、ゴルフボールがゴルフ屋の看板になっているのだ。

 

千葉をもう一度見てみる。

 

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無関係

ゲームセンターとはまったく無関係に、そしてただ純粋に、「飛行機」があるのだ。それはゲームセンターの宣伝を何もしてくれてはいないし、ゲームセンターにとっては何の意味もない、ただのオブジェだ。逆に言えば、それは、オブジェとして「純粋」である。

 

僕は千葉を見るとき、「看板」という用途を逸脱した、このオブジェとしての純粋さに魅了されているのかもしれない。

 

不器用であること

 

孤独であり、純粋であること。

 

千葉がどういうやつなのか、だんだんわかってきた気がする。それでもなお、ぼくはこの千葉をもっと知りたいと思う。だからこんな例を挙げてみよう。

 

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歌舞伎町のゴジラ

新宿は歌舞伎町にある有名なゴジラだ。歌舞伎町のど真ん中、東宝シネマズのビルにくっついている。たしかになんとも孤独であり、そして純粋だ。東宝の映画において重要な位置を占めているということもあるが、しかしゴジラが付いていたからといって決して映画館に人がいっぱい来るわけじゃない。コスト的に見たってバカにならない金額がかかるだろうし、あまりにも不合理だ。そういう意味でこのゴジラも純粋なオブジェだし、そして一人で(人じゃないが)佇んでいる。だからこのゴジラは孤独で純粋なのだ。

 

でも、やはり千葉とは何かが違う。いったい何が違うのだろう。

 

もう一度ゴジラを見てみる。

 

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なんだか、いい感じに風景と調和している。そうか、このゴジラはたしかに孤独で純粋かもしれないが、風景と調和して、うまいことやっているのである。ビルもゴジラも黒を基調としていて色味がマッチしているのか、それともサイズ感なのか。なんだかわからないが、違和感がそんなにあるかといわれたらそこまでではない。

 

一方の千葉はどうか。

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調和感ゼロ

あまりに唐突で、全然うまいことやっていないのだ。色も、まったく意識されていないし、サイズ感も店の横幅よりも大きく翼が広がっていて、不均衡。もはや不器用ともいえるだろう。

ゲーセンに突然、色も形もマッチしない飛行機が現れる。不器用というほかないではないか。ゴジラのように、純粋だがどこかしたたかさがあるのとは違って、このオブジェはまったく行き当たりばったりに作られた「不器用」な感じがする。

 

そうなのだ、不器用であること、がもうひとつの千葉の特徴なのだ。

 

高倉健

 

孤独であり、純粋であり、そして不器用な千葉。

 

これって何かに似ていないだろうか。

 

そう、映画俳優として一世を風靡したあの俳優とそっくりなのだ。

 

その名も、

 

高倉健

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高倉健 ©東宝

……

 

高倉健??

 

「わたし、不器用なんで」といいながら刑務所から出てくる高倉健。その姿は、自らの帰りを待つ女性を純粋に思い続ける孤高の男。まさに、孤独であり、純粋であり、不器用ではないか。

 

そして、ぼくが千葉のあの看板に魅かれたのは、それが高倉健そのものだったからではないのか。

 

だからぼくは、あの、千葉の立体看板を「千葉の高倉健、そう呼ぶことにしたのである。

 

もう一度見てみよう。千葉の高倉健と、高倉健を。

 

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千葉の高倉健

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高倉健

 

おれたちはここにいていいんだろうか?

そんな迷いが存在に現れているかのように居心地悪そうな様子を見せる千葉の高倉健高倉健。終の棲家を見つけることのないまま、宙ぶらりんでただひとりじっと佇む千葉の高倉健高倉健

 

千葉の高倉健は今日も千葉駅の傍らにじっと佇んでいる。

 

 

偏在する高倉健

 

さて、ぼくたちは千葉の高倉健の魅力に迫りながら、世の中にあるさまざまな立体看板や飛び出るオブジェを観測してきた。立体看板、という括りでいえば、案外こうしたものは街中の至る所にあったりする。大阪はもちろんのこと、新宿や浅草のように東京の街でもよく観測される。

 

でも、高倉健、となるとなかなか難しいのではないか?と思われる方も多いかもしれない。しかし、高倉健は結構いる。意外にも。

 

たとえば、

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カラオケ屋……?

ナイス高倉健

 

高倉健度 ★★★★☆である。

 

カラオケ屋とは思えない進撃の巨人みたいな謎生物、そしてそのあけすけなミスマッチ感。しかも見てください、この顔を。

 

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寂しそう

寂しそう。やはり新宿という東京砂漠のど真ん中で、一人孤独に耐え忍んでいるのだろうか。

 

こんなのもあった。

 

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突然のカブトムシ

ここは木ではない。こんなところに止まったってなにもないのに、必死でビルの壁面にしがみついている。なんとも純粋に、ただそこにカブトムシがいるのだ。

しかしこのオブジェ、表から見る分にはこうして面白がれるが、ビルの中から見たら、カブトムシの腹がでかでかと見えてかなり気持ち悪いんじゃないか。いや、こちらとしてはなんともナイス高倉健で最高なのだが、いったいどういう気持ちでカブトムシを張り付けたのか。謎である。

 

不器用さ、純粋さにおいてなかなか最高だから、高倉健度★★★★★、である。

高倉健は偏在する。

 

お次はこちら。

 

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分からない人のために、拡大してみると……

 

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虚空を見つめるゴリラ、もとい高倉健

ナイス高倉健

 

なんて虚ろな目のゴリラなんだ。しかも回りはキャバ嬢や、ホストの写真ばかり。どう考えても浮いている。もう高倉健度マックスだ。☆100個ぐらい上げちゃいたい。ちなみにこの高倉健がいかに高倉健であるかは、ほとんど同じような構図のゴリラが別の場所にもあったからそちらと比較してみるとよく分かる。

 

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ユニバーサルスタジオジャパンにいたゴリラ

これはバッド高倉健である。

 

もうさっきの高倉健と比べると顔つきからその態勢まですべてよくない。だいたいこのゴリラは自分の場所をちゃんと持っている。つまり、キングコングアメリカ映画、という文脈があるものだから、みんなここにゴリラがいたってなにも思わない。だからこのゴリラは浮かずにすむし、それどころか確たる自分の居場所を持っているのだ。

だからなのか分からないが、USJのゴリラはなんだか偉そうで、見ていると腹立たしい気持ちになってくる。

 

高倉健がいなくなった街

 

高倉健は意外にもいる。でも高倉健がいなくなった街だってある(映画のタイトルみたいだ)。

 

それが、

 

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渋谷・液晶画面ばかり

渋谷である。

 

いないっ!高倉健がいないのである。

 

というか高倉健どころか、飛び出す看板自体がない。全部液晶画面に映る広告ばかりで、飛び出すどころかつるっつるである。なんとも残念。

 

渋谷は多くのビルが再開発によって更新されている。新しいビルには、飛び出す看板のような原始的な看板などつけずに、より洗練された液晶看板をつけるのが主流なのだろう。

 

時代が新しくなるにつれてだんだん高倉健の姿は消えていってしまうのだろう。少し悲しい気持ちもするが、それが時代というものなのだ。そういえば、本家の高倉健だって亡くなってしまったのだし、この高倉健たちも近い将来、消えてしまうかもしれない。

 

高倉健を探しに行こう

 

……と高倉健の行く先を考えると、なんともしんみりしてしまうわけであるが、だからこそ、今、みんなで街角の高倉健を探しに行こう、とぼくは声を大にして言いたい。

 

いくら高倉健の先行きが不安定だとしても、先ほど何件か紹介したように、よくよく見てみればまだ街中には高倉健が偏在しているのだ。

 

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四股を踏む高倉健

街の雰囲気を盛り上げるわけでもなく孤独で、立体看板として機能するわけでもない純粋なオブジェで、街の雰囲気に調和しているわけでもなく不器用。

 

そんなオブジェは、普通に考えたらすぐに撤去されてしまうだろうし、ぼくたちの暮らしにはまったく必要ない。しかしそれでもなぜかこれらのオブジェは飛び出てしまい、佇んでしまい、その姿をぼくたちの前に現している。

そんな不可思議な存在だからこそ、ぼくはこのオブジェに魅かれたのだし、無駄だからこそ、ぼくは高倉健が好きなのである(高倉健をディスっているようにも見えてしまうが、決してそんなことはない)。

 

というわけで、みんなで高倉健を探しに行こう。もしかすると無くなってしまうかもしれない、孤独で、純粋で、不器用なオブジェを探しに。