谷頭 和希:雑記帳

「場所」を中心に様々なものごとを横断的に批評している谷頭和希(たにがしら かずき)のブログです。

立山から地獄と浄土を考える(4)

前回は日本人にとっての地獄と浄土が中国のそれに比べると非常に近しい位置にあるイメージで認識されているのではないか、ということを考えてきた。このような地獄と浄土の近さについて人々がどのようにとらえていたのかを確認することの出来る格好の資料がある。それが『立山曼荼羅』だ[1]

 

これは立山修験の様子が一枚の曼荼羅におさめられ、地獄と浄土の様子、そして当時の信仰の様子が分かる貴重な資料である。現存しているのは30枚ほどで立山修験が盛んな頃はこの曼荼羅を傍らに信者たちが上総から大阪に至る諸国を回って地獄と浄土についての説法を行い、これによって源信の『往生用集』によって築かれていた地獄と浄土の思想が全国に広く伝わる一要因となったのである。さらにこの『立山曼荼羅』を詳しく見てみよう。

 

この曼荼羅にはいくつかの種類が存在しているが、主に描かれている内容として①立山開山縁起②立山地獄③立山浄土④立山禅定登山案内⑤芦峅寺布橋灌会の5場面が存在する。ここで注目したいのは実際に六道のうち、立山曼荼羅の中でフューチャーして書かれているのが浄土と地獄の二場面であり多くの立山曼荼羅においてはこの地獄と浄土が二つの対立軸として描かれているということである。それは下図にあるような立山曼荼羅の構成を模式化した図からも理解されよう。

 

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立山曼荼羅、坪井義昭氏本(富山県立博物館編「立山のこころとカタチ」、富山県、1991年より)

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立山曼荼羅の構成(鈴木正崇『山岳信仰』、中央公論社、2015年より)

 

しかし実際には先ほど確認したような地獄谷や弥陀ヶ原以外にも立山には餓鬼道に落ちた者が飢えをしのぐために耕す田んぼとされた「餓鬼の田」という地名も存在しているのであって、決して浄土と地獄のみが立山の中にあるのではない。とはいえこの曼荼羅においてはこの2つの世界が「地獄の世界と紙一重のところに、極楽浄土の世界も存在している」[2]と言われるようにそれらの地理的な特徴の特異さから見出されたその近さが強調されているのである。

 

しかし実際には浄土と地獄というものは対等な二項対立の関係になるのではなく、浄土に対する六道の一つとして地獄が存在するだけである。しかし浄土と地獄についての思想が源信の『往生要集』で伝わり、そのイメージが地獄絵図などで伝わってから立山の特異な自然環境がその地獄と浄土に重ねあわせられることとなった。

 

そのようにして立山の自然環境が地獄と浄土の思考に見立てられて考えられた一方、そのようにしてとらえられた立山の自然が今度は立山曼荼羅というイメージに再変換させられ、そのような地獄と浄土の二項対立のイメージが――立山における自然環境を元にして――作られ、全国を駆け回ることとなった。

 

脚注

[1] 以後、立山曼荼羅に関する記述は特記事項を除き、福江充「芦峅寺教算坊が大阪で形成した檀那場と立山曼荼羅」(福江充『立山信仰と三禅定』、岩田書店、2017年)、富山県立博物館編「立山のこころとカタチ」(富山県、1991年)を参照した。

[2] 富山県立博物館編、同上書、p. 26。

ディスカウントストア:ドン.キホーテ論~あるいはドンペンという「不必要な装飾」についての考察日記(3)

ドンペンについて考えていくと、ドンペンが担っているかもしれない象徴性に辿り着いた。しかしドンペンがドンキと言う企業のキャラクターである以上、それがドンキという企業に負っている実際の役割もあるはずだ。だから次にドンペンくんそのものが置かれている環境に注目してみよう。いや、環境などと大それた言葉を使うまでもなく、ドンペンくんの人形が一体どこに置かれているのか、ということについてである。先にドンペンくんの人形はドンキの外装において完全なる装飾として存在しているということを述べた。もう少しその外装の諸相を見つめてみよう。

 

 

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ドン.キホーテ水道橋店

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ドン.キホーテ藤沢店

                       

このようなドンキの外装は私たちにある規則的なパターンを見出させてくれる。ドンペンの人形は無機質なビルやマンションに取り付けられているだけであり、それらを取り除いてしまえばそこに残るのは至って普通の建築物だということだ。これはドンキが採用している出店戦略による部分も大きい。ドンキはその出店コストを抑えるために居抜き物件を中心として、都内の雑居ビルの中にその店舗を構えることも多い。もちろんそうした出店戦略は他のチェーンでも同様であるがそこにドンキはドンペンを施す。

 

普通の建築と取り付けられた装飾。これを考えるのに良い先行研究がある。

 

 ロバート・ヴェンチューリの『ラスヴェガス』だ。この論考で彼が提出する「あひる小屋」と「装飾された小屋」という二項対立を知るためにはヴェンチューリが乗り越えようとした近代建築という巨大な思想を知る必要がある。至極簡単にまとめるなら、近代建築とはその建物の機能と形態を極限まで一致させるという絶え間ざる試みであった。そのために近代建築は徹底して機能の遂行に不必要な装飾を拒否する。装飾行為を犯罪行為であると喝破したアドルフ・ロースを思い出そう。しかしここでヴェンチューリが主張することには、半端な近代建築家たちが装飾を完全には捨てきれず、その残り滓が「あひる小屋」のような形になって結晶してしまった、というのである。「あひる小屋」とは実際にラスヴェガスに存在した以下のような建築物である。

 

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ラスヴェガスのあひる小屋

                        

ここで起こっていることは、装飾を拒否したはずの近代建築がそれを拒みきれずに建築自体が装飾になってしまっていて明らかにその機能を食いつぶしている、という事態である。「あひる小屋」の内部に想像を働かせてみよう。曲線を描く壁面はいかにも暮らしにくそうだ。  

 

そこでヴェンチューリが近代建築に変わる新しい建築として提出するのが、二項のもう一方である「装飾された小屋」なのだ。これはまさにドンキの建築タイプそのものであって、それ自体はなんの変哲もない建築物に装飾が付加されるような建築を示す。ドンキもまたドンペンを取り除けばそれはどこにでもあるような雑居ビルであったり、マンションに他ならないのであった。  

 

しかし重要なことは、ただそれらが類似しているということを指摘することだけではなく、それらが類似しているということが何を表しているのかということであろう。なぜヴェンチューリはこのような装飾が付加された建築を称揚したのだろうか。それはあひる小屋やその思想的背景になった近代建築が、建築物一つで屹立しており、周りの街並みや環境を取り込むことなしにそこに存在するという周辺環境から隔絶された状態を作り出すと考えたからである。そして「装飾された小屋」こそが、そうした孤立する建築を救い出すのだとヴェンチューリは信じていた。例えばラスヴェガスにおいて付加される装飾は大きなネオンの看板などであるが、これは自動車中心の社会において必要とされる、つまりスピードの速い車からでもよく見えるための装飾なのであってそれはラスヴェガスという土地性がその装飾に反映されている。これこそヴェンチューリが『ラスヴェガス』で主張しようとしたことであり、これからの建築は周りの環境をそこに取り込んで建てられるべきだ、と言うのである。  

 

ではドンキはどうだろうか。当然のことながらドンキがこうした土地性を反映するものとしての「装飾された小屋」であるという議論に疑念を持つ人もいるはずだ。それも当然である。なにせドンキは「ファスト風土化」する日本=郊外の代表的悪者であって都市の景観を均一化させる大きな要因であると多くの論者が語ってきたからで、それは本稿の初めに語ってきたことでもある。しかし、その言説は本当に正しいのであろうか?早急に答えを言ってしまうならば、それは否であろう。例えば、次のようなドンキを見ればよい。

 
   

 

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ドン.キホーテ白金高輪

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ドン.キホーテ浅草店

 上は白金高輪にある「プラチナドン.キホーテ」、そして下は浅草にあるドンキである。ここにおいてその外装が通常のドンキに比べて明らかに変化していることに注目しよう。白金高輪のプラチナドン・キホーテは高級住宅街の真ん中に位置しているために通常のドンキで見られるようなけばけばしい装飾は身を潜め、銀と白を基調とする(白金?)外観に統一されており、ドンペンくんもまた銀に塗りつぶされている。一方で浅草のドンキは江戸以来続く盛り場であり、演芸の中心地でもあった浅草六区の真ん中に位置しているために、やはりその外装もレトロ調なレンガ風の作りになっており、「ドン.キホーテ」という看板もローマ字で表され、エンターテイメント性を高めようとしている。  実際にこうした土地に強固なスーパーマーケットチェーンであるドンキが出店することに対して近隣住民の反対は大きかったようだ。そのような反対意見を聞き入れつつ、しかしあのドンペンくんの外装にはこだわるといったドンキの意向がこのような外観の店舗を作り上げる。この光景はまさにヴェンチューリラスヴェガスで見た光景そのものであり、ドンキの外観がその土地性を反映するということの一つの表れであると言えるだろう

立山から地獄と浄土を考えてみる(3)

前回は立山から地獄について考えてみた。では、一方で浄土についてはどうだろうか?場所としての浄土であるならば浄土寺と名の付く寺が数多く存在し、浄土を模した寺は数多く作られていた。しかし火山によって成立した地形をもってして「地獄」と名付けられたように、もともと存在している地形をもってして「浄土」に比定するという事例を私たちは考えねばならない。そのように考えたときに元々の自然地形が「浄土」に見立てられたという例について私たちには福島にある「浄土が原」や立山の「弥陀ヶ原」が思い浮かぶ。ではこうした地名はいかなる理由をもってして「浄土」と表されているのだろうか。ここでも立山の浄土を表す地名である「弥陀ヶ原」を考えてみよう。この「弥陀ヶ原」は先ほども語った「地獄谷」とそう遠くない位置にあり、標高1980mの位置に存在している。かつての立山修験においてはこの弥陀ヶ原を通り、室堂の地獄谷を横目に見ながら最終的には立山山頂に至るというルートを辿っていた。

 

先ほどのように弥陀ヶ原についての解説に耳を傾けてみよう。

 

 

ここは、さわやかな風が吹く雲上の世界。野鳥のさえずりに耳を傾けながら、高層湿原に咲き競う花々を楽しんでみましょう。[1]

 

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弥陀ヶ原

 

この弥陀ヶ原は地獄谷の火山ガスが蔓延し、動植物が死滅していくような地理的特徴とは大きく異なり広々とした平原に高山植物が繁々と生えている、まさに浄土であるかのような地理的特徴を持っている。地獄と浄土の思想を体系的に日本人に伝えた源信の『往生要集』の極楽の十楽の中には「蓮華初めて開く時、所有の歓楽、前に倍すること百千なり」[2]という「蓮華初開の楽」という文言がある。その世界の美しさを蓮華が初めて花開いたような美しさであると例えているが、まさに植物が美しく映えわたる姿は人々に実在の姿としての「浄土」を想起させたのであろう。ただしこのような浄土としての自然地形がそれまでに存在していなかったわけではない。例えばチベットにあるカイラス山は古代インドの世界観の中心にそびえる須弥山として見立てられており、その山は曼荼羅の中心として考えられている。様々な宗教の神がその山に住み、極めて尊い山として現在でもあがめられているのだ[3]。ではこのような地形と立山は何が違うのだろうか。

 

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カイラス

 

その一つの大きな特徴が今まで見てきたような全く異なる景観を持つ「地獄谷」と「弥陀ヶ原」がほとんど距離をおかずに同じ立山の中に存在しているということにあるのではないか。これもまた日本の地理環境が持つ独特の特徴によるものだが、日本の国土は単純に狭く、いくら弥陀ヶ原が雄大だとはいえ中国などの大陸の大草原や高原に比べればその広さは比べるほどでもない。しかし一方でそうした地形的狭小さが日本における地獄と浄土に関する重要な認識を形作ったということも述べねばなるまい。

 

それはどのような認識か。

 

それは地獄と浄土というものが本来の設定上は極めて遠い距離に存在しているにも関わらず、それが立山という狭い地形の中で具体的な景観をもって展開されることにより、その2つの世界観が目に見える形で近さをもって捉えられたということである。これは例えば先ほども挙げたようなカイラス山の近くでは見ることのできない現象である。先ほども語った通り、カイラス山の周辺の山は菩薩に見立てられており、周辺一帯が浄土の雰囲気を携えているのである。中国のような広い土地を持つ地形では例え何かの地形が地獄や浄土に見立てられてとしても、それは周囲とは隔絶した地形に存在しており、それら2つがセットになって捉えられるということはまず存在しないのではないだろうか。 

 

 

[1] 佐藤、同上書、p. 46。

[2] 源信『往生要集』、石田瑞磨訳注、岩波書店、1992年、p. 95。

[3] F・ポマレ『チベット』、今枝由郎監修、後藤淳一訳、創元社、2003年、p. 28を参照。